HSPMayaのメモリー日記

HSPのMayaが日々を綴る

不思議な思い出

保育園の頃から

私は 不思議なものをよくみた

人の後ろに 薄い靄のようにかかったものだ

人によって色々な色があってその向こうに

透けているような人が並んでいたり、1人だったりいるのが見えた

しかし、それを母に言ってもそんなモノは見えない

おかしなことを言うのはやめなさいと言われた

 

とにかく

父親も母親も共働きで生活するのがやっとという状態

鍵っ子だった私は大変な両親を心配させてはいけないと

ほんとうに世話が掛からない子供だったので

あまり そんな事を言っても気にしても貰えなかったのだろう

私もそれが見える事が特殊な事だとも思っておらず、さほど気にもしていなかった

 

保育園のころから

ちょっと変わった子だったからなのか

保育園の中や、終った後も

私はよく友達から虐められた

砂場で友達に立つように命令されて

そのまま、放置されることがよくあった

また、雨の日に長靴を履いていくと

その中に水や砂を入れられたりもした。

 

一人っ子だったこともあって

藁をつんだ小屋の中で絵を描いたり

田んぼで白つめ草を編んだり

独りで遊ぶことが多かった。

 

田んぼから見る

真っ赤な夕焼けの風景は

今も鮮明に覚えていて

私の心の現風景のようなものになっている。

 

 

 

引越し・・・

4歳になる頃

家を引越した。その時代に大変流行った団地である。

6畳・4畳半・3畳にキッチン なんと!お風呂なし

引越した当初は、歩いて10分ほどかかるお風呂屋さんに通っていたが

ベランダを改装工事してお風呂を造った。

5階建てで12棟もある団地、ほとんどの家庭は

ベランダをお風呂に改装していた。

今でもその団地は存在しており、Googleストリートビューで見ると

あの頃とほとんど変わっていない。

 

家賃が激安の団地に引っ越したが

やはり父親は絵描きという名のヒモ状態

生活は安定しない

母が頼みこんで、以前の家主さんの紹介で

父は歯科技工士の助士のような仕事を得た。

 

私はすぐ近くの保育園に通うことになった。

 

私はちょっと変な子供だったようだ

保育園には子供の足でも分もあれば余裕で着くような場所である。

母親は仕事があり毎日ひとりで通っていたが

ほぼ毎日大幅に遅刻だったらしい

この分ほどの道のりを1時間以上かかるのだ。

 

保育園に通う道端の蟻をみるのが大好きだった。

蟻が列をつくって食べ物を運んだり

よく働く蟻もいれば、ただウロウロしている蟻もいて

その頃の私にとって、なんだか不思議な生き物であると同時に

じっと見ているうちに、蟻の世界に、入り込んでしまうのだ。

 

また、私は

お昼寝の時間にも

周りから見るとおかしな行動をよくとっていた

私はまったくお昼寝をしない子で

お昼寝の時間は私にとって観察の時間だった

隣で寝ている友達のまぶたの裏側で目玉が動いているようなのが

不思議で、どうして寝ているのに目玉が動くのか

つい触ってしまうのだ。

 

せっかく寝ている友達は起きてしまうので

よく先生に怒られて

お布団を持って立たされていた。

 

4歳の頃・・・

その頃の他の想い出といえば

たしか4歳頃まで住んでいた家は貸家だったが

家主さんが裕福な歯医者さんで

父の絵を気に入ってくれていたこともあって

手頃な家賃で、小さいが庭もついた一軒家を貸してくれていたらしい

 

ある日、父がどこからか犬をもらってきてくれた

真っ白なボクサーだった。

 

名前は私が「ニコ」と名付けた

「ニコ」は 大好きな子供番組の中で歌われる

「ニコ、ニコ、ニコちゃん いつも元気~♪お返事 ハイ!元気にハイ!」

という歌が好きだったからだ・・・

ボクサー犬の「ニコ」はとてもバカだった

自分のエサの容器にウンチをしてしまったり

散歩の途中で逃げ出しても 家に帰ってくる道が分からなくなり

迷子になって、探しにいくと交番につながれているような犬だった。

そのおバカな感じも可愛くて、私はニコが大好きだった。

 

でも、父親が急性腹膜炎をおこし入院

23日、母が家を空けた時、家主さんに世話を頼んであったが

なぜだか 死んでしまったという

幼い私は「死ぬ」という事がよく分からなかった。

とにかく まったく動かなくなった「ニコ」に

大きな声で話しかけ続けていたのだけは鮮明に覚えている。

 

子供の頃の大やけど、その後

 

母の不注意で私が大火傷を負ったこともあり

父方の親戚などに、愚かでバカな嫁というレッテルを貼られ

事あるごとにいじめられたいたそうだ・・・

 

私は、まだ小さかったこともあり

あまりその時の事は覚えていないが

 

その後の治療がとても痛く

大人でも痛みで声が出るほどであるのに

私はジッと耐え、泣かなかったそうだ

 

それをお医者さんがとても褒めて下さり

ご褒美に大きな飴玉をくれた

 

その大きな飴玉を舐めながら帰る途中

何かの拍子で その飴を飲み込んでしまい

それがショックで泣いてしまった事だけは

何故だかとても鮮明に覚えている。

ある事故の件

母の話は、また何かの折に書くとして、私の事に話を戻そう・・・

 

赤ん坊だったあの頃、母親と思っていた人から

引き離された経験がもしかしたら私の根底にある

深い悲しみ、淋しさに繫がっているように思う。

 

さて、本来の自分の家に戻ってからは、父親の虐待を受ける生活が始まった。

気に入らない事や、機嫌が悪いと

自分が疲れるまで 母や私を叩いたり、家にあるものを壊した

また、母に後から聞いたことだが、私のお尻を

何度もたたくと自分の手が痛くなるので

お好み焼き用のヘラで私のお尻を何度も叩いていたようだ

 

そして3歳になるころ事故がおきる・・・

母が何かに使う為に廊下に置いておいた熱湯を

まだ小さかった私が足にひっかけ 下半身にもろに浴びてしまったである

母は、熱さで泣きじゃくる私の声できっとパニックになったのであろう

熱湯がかかった私に水を掛けて冷やすという事を思いつかず

着ていた衣服を先に脱がせてしまったのだった。

当然皮がめくれ、ひどい火傷状態になってしまったのである。

その後医者さんに駆け込んだが、皮がめくれた状態になってしまっていたため

私の肌はもとに戻ることはなく 今もケロイドのあとは消えていない・・・

その後

長い入院生活を終え

私が母のもとに戻った時は、私は本当の母を忘れていた

 

家に戻った時、私は泣きじゃくりながら父親にしがみついて

部屋の床になかなか足を付けようとしなかったそうだ。

その時の母の気持ちは

どんな気持ちだったんだろう・・・

愛する我が子が、小姑である夫の姉の事を母親だと思っていて

床に足をつけようとせず、DVの夫にしがみついているのだ

どれほど辛く悲しい気持ちだっただろう。

ここで

母親の話を少し書いておきたい

母は生まれてすぐ、母親が病死

その後は 消防士の父親とその姉によって育てられた

しかし母は、その父親が戦争に行ってしまった時期と

身ごもった時期とが微妙だったことによって

母はまるで背信の子として扱われ

父親の姉の叔母にひどい虐めを受けて育ったそうで

小学校を卒業し中学にも行かせてもらえず

捨てられるように、母は住み込みの奉公に出された。

 

奉公先では、休みが一年でお正月とお盆のたったの2日だけ

住み込みの奉公だから、朝暗いうちから起きて夜中まで働かされる。

普通の家庭なら、中学生の母はまだ育ちざかりだが

栄養状態も悪く、そうとう身体を酷使したのだろう

その頃から腎臓病を患うことになる

また、夜寝る前に入ったお風呂の中で身体の不調から気を失い

湯船の中で溺れしまって、耳の鼓膜がやぶれ耳までも不自由になってしまう・・・

母は事あるごとに「私は本当に悪い星の元に生まれた」と

まるで、ひとりごとのように呟いていた。