HSPMayaのメモリー日記

HSPのMayaが日々を綴る

その後

長い入院生活を終え

私が母のもとに戻った時は、私は本当の母を忘れていた

 

家に戻った時、私は泣きじゃくりながら父親にしがみついて

部屋の床になかなか足を付けようとしなかったそうだ。

その時の母の気持ちは

どんな気持ちだったんだろう・・・

愛する我が子が、小姑である夫の姉の事を母親だと思っていて

床に足をつけようとせず、DVの夫にしがみついているのだ

どれほど辛く悲しい気持ちだっただろう。

ここで

母親の話を少し書いておきたい

母は生まれてすぐ、母親が病死

その後は 消防士の父親とその姉によって育てられた

しかし母は、その父親が戦争に行ってしまった時期と

身ごもった時期とが微妙だったことによって

母はまるで背信の子として扱われ

父親の姉の叔母にひどい虐めを受けて育ったそうで

小学校を卒業し中学にも行かせてもらえず

捨てられるように、母は住み込みの奉公に出された。

 

奉公先では、休みが一年でお正月とお盆のたったの2日だけ

住み込みの奉公だから、朝暗いうちから起きて夜中まで働かされる。

普通の家庭なら、中学生の母はまだ育ちざかりだが

栄養状態も悪く、そうとう身体を酷使したのだろう

その頃から腎臓病を患うことになる

また、夜寝る前に入ったお風呂の中で身体の不調から気を失い

湯船の中で溺れしまって、耳の鼓膜がやぶれ耳までも不自由になってしまう・・・

母は事あるごとに「私は本当に悪い星の元に生まれた」と

まるで、ひとりごとのように呟いていた。

誕生から~

誕生から今にいたる事をまずは自己紹介がてら

書いていこうと思う。

なぜなら、実は不登校を抱える親(特に母親)

悩ん時、最初に取り組んだ方が良いのは

まず自分自身を知るということだからである。

 

大阪で私は生まれた。

父親は売れない絵描き、母親は病弱であったが苦労人の働き者

父親は今で言うDV亭主で、私が生まれてからもDVは変わらず

また絵描きといっても、飲んだくれの売れない絵描き、見た目はイケメン

いわばヒモのようなもので母が働いて生計を立てていた。

 

私が赤ん坊の時も ずっと母は働き続けていたようで

昼間は以前から働いていた工場で、社長の奥さんが良い方で

自分の子供と一緒にめんどうを見てくれていたので

そこの工場で働き、夜は私が寝てから深夜までラーメン屋で働いていたそうだ。

父親はというと、夜は飲みに出掛ける事が多く

母はそのラーメン屋のバックヤードに私を寝かせ、働いていたそうだ・・・

 

しかし

さすがに睡眠時間もわずかで病弱な身体

そんな生活が続くわけもなく

私が1歳にも満たないうちに、母は倒れ入院してしまったので

父親の姉の家にあずけられた。

 

 

子供の不登校に悩んでいるお母さんへ・・・

初めまして、mayaといいます。

子供の頃から勘が強く

普通の子供と少し違っていたようで

よく虐めを受けていました。

 

しかし中学の時に出会った恩師のお陰で

なんとか学時代を乗り越え、社会人に・・・

30歳で結婚、33歳で出産、38歳で離婚

仕事と透析患者で体の弱かった母親の介護をしながら

必死で子育てをしていました。

 

息子が中学2年になって、息子への虐めが始まりました。

そこからの体験や自分の子供時代の事など

ブログにつづっていこうと思います。

 

そして子育てやいじめ

不登校に悩んでいるお母さんに向けて

何か役に立つような言葉を発信していこうと思います。

どうぞ宜しく・・・