HSPMayaのメモリー日記

HSPのMayaが日々を綴る

インフルエンザ

そろそろ現在にもどって

普通のブログのように日々の日記のようにしていきたいが

自分自身の回顧も織り交ぜながら

綴っていければと思う・・・

 

さて、私の息子は

中学2年生から、虐めがきっかけで不登校になった。

高校は通信だ。

その不登校を経験し 様々な件を乗越え

今は私の影響や自分自身の経験もあって

現在大学生で心理学科に通っている。

その息子が、昨日から高熱で学校を休んでいる

385分 インフルエンザだろうなと思って

医者に連れて行ったらやはりA型のインフルエンザだった。

 

インフルエンザの予防接種はしていない

私が通っているヨガの先生がもと看護師で

絶対に予防接種はしてはいけませんよ!と強く言われたこともあって

ここ3年ほど前から打たなくなった。

 

以前は 母が透析患者だったこともあって

万が一感染してもいけないと毎年打つようにしていた。

 

ここで

母が透析に至った時の話をしておきたい

母は以前の記事にも書いたが、苦労人で

中学にも行かせてもらえず、奉公に出され

そうとうに無理をした為、慢性腎炎を若い頃から患っていた

私を生むのも命がけで生んだらしい

 

慢性腎炎とは静かな病気で

少しずつ少しずつ身体を蝕んでいく病気らしい

私が高校2年生のテスト期間に、仕事の最中母は倒れた。

 

それは、私が中学生の頃

父が歯科医院の職を得て安定した生活を送っていたのに

一緒に働いていた人を殴ってしまい解雇されてしまった。

 

父は絵描きという職業も持っていたが

絵で生計を立てるほど売れるような著名な画家でもなく

いわゆる売り絵のような富士山や売れる絵を画いていなかった為

母が大黒柱として必至で働いていた。

また、その後ろめたさなのか、罪悪感からなのか

その頃から父の暴力はエスカレートしていて

毎日のように私たちを殴ったり蹴ったり、家の中を荒らした。

 

今の私なら、黙って殴られているような事はせず

警察に電話するとか、刃向うとか何かしたと思うのだが

すり込み現象なのか、私は父に一度も反抗することなく

ずっと我慢していた。母も一緒だった。

忘れられないのは、梅雨の時期に部屋の中に洗濯物を干してあって

それが鬱陶しいと怒り出し、母を殴り続けた。

止めに入った私も殴られて、またそれをかばった母は

また一段とひどい目にあった。

母は頭から流血し、血が止まらなくなって

病院に駆けつけた事がある。

 

そんな日々が何年か続いて

ついに母は倒れた。

救急で運ばれ、尿毒症を起こしていた母は緊急手術を受けた

人口透析を受ける為の外シャント手術というものだ

衝撃的だったのは、手術を待つ間

意識がない母のベッドの横で母をみていたら

母が急に咳き込み、洗面器いっぱいほどの血を吐いた

私はあまりにも驚いて、その血を母の口の中に戻そうした。

苦しそうに咳き込む母、ハッと正気に戻り

すぐにボタンを押して看護師さんを呼んだ

後から医者に聞くと、あと一日手術が遅れていたら

母は死んでいただろうと・・・・

それから34年間もの長い間 母は透析を受ける事になったのだ。

 

 

 

小学2・3・4年の頃

小学校2年生か3年生の頃の想い出

あの時代はドッジボールが大流行で

クラスメートの全員、休み時間にドッジボールをしていた。

でも私は、人に思い切りボールを投げてあてるという行為が嫌いで

また足の速い私はいつも最後まで逃げ回りそのくせボールを受けようと

しないため、皆に大ブーイングをくらってしまい

それ以後ドッジボールには参加せず

独り教室で、雑誌「りぼん」の付録についていたタロットカードで

ひたすら色んな事を占っていた。

子供の自分でもびっくりするほど色んな事が当たっているので

怖くなってやめてしまった。

 

当時のクラス写真を見ても、家の中も暗かったので

顔がまったく子供ではない、悲しいくらい大人っぽい。

 

私のちょっとした転機になったのは4年生の時だ

4年生の担任が新任のとても明るくて元気な男の先生だった

その先生がちょっと変わった私を何かと気にかけて

よく声をかけてくれた。

 

また、私は走るのが早くて運動会ではいつも一番で

父や母も先生も褒めてくれる

特に父親は自分の足が不自由だった事もあって

私の足が速いのが嬉しかったのだろう

 

私は中学にあがって

陸上部に入部した。

この陸上との出会いが、少しずつ

私に良い影響を与えていくことになるのだが

また、その話は何かの時に書くことにする。

変な娘・・・

私の話に戻そう

保育園の頃から、今でこそオーラというのが

一般的に言われるようになったが

その頃はまったくそんな情報などなかったから

ずいぶん大人になるまで

それがオーラだとは知らなかった

 

人の後ろに色つきの靄のようなものがあり

靄の向こうに薄い人間をみていて、私に何かを訴えてくるが

まだ子供だった事もあり言ってる意味がよく分からない

 

ただ、その人の感情だけは伝わってくるので

心配しているのだな~とか ありがとうと言っているとか

悲しんでいるとか そういう事だけは分かった。

 

ただ小学校に上がるあたりから

徐々に見えなくなっていった

ただ、少し変わった子供だったのは変わらず

1年生の頃、印象的な出来事として思い出す出来事がある。

 

ある日工作の時間に先生から「今みんなが大好きなものや興味があるもの」を

粘土で作りましょう、との課題で、他の友達は可愛いウサギやケーキ 

男の子は車や飛行機などを作っていたが

私が作ったのは 入れ歯だった。

 

私にとって入れ歯は最高に興味深いものだったのだ

その頃たった1人だけ生きていたのが母方のおじいちゃん

そのおじいちゃんが時々うちに遊びに家にきたとき

カパっと口から外す入れ歯が、なんだか不思議で興味深かった。

父が技工の仕事をしていた事も大きかったのだろうと思う。

 

しかし、その粘土の入れ歯を見た友達にとても笑われてしまって傷ついた

でも、一年生の担任の先生は私を少しも笑わなかった

心の中はどう思っていたかは分からないが、その独創性を褒めてくれた。

今でも感謝している。

 

父親の子供の頃の話

ここで父親の幼い頃の話をしておこう

私の父親11人兄弟の末っ子

父親の父は騎馬警官だったそうで、そうとう気性の荒い人だったようだ

血筋なのだろうか、DVはもとより、父親も他の兄弟もひどい虐待を受けていたそうだ

そして躾なのか何なのかが理解ができないが

まだ小学校にも上がっていない幼い父を

他の兄弟と同じように馬に乗せて訓練をしたそうだ。

幼い父は、馬から落ちて大けがをした。

その頃の医療はまだまだ遅れており、大した治療もしないまま放置され

打撲から、連日高熱が続き強打した腰のあたりか壊死してきたそうで

その後、大きな病院で壊死した右側の足の付け根あたりを骨から根こそぎ摘出し

また繋ぎ合わせるという大手術をしたという。

 

だから父親は右足が細く、腰骨が無い分、短くまったく曲がらなかった

小さい頃はよく父とお風呂に入ったが

子供にも見られたくないのか隠していたので

その足をよく見たことはなかったが、思わず目を背けてしまうほど

父の足は痛々しかった。

 

不思議な思い出

保育園の頃から

私は 不思議なものをよくみた

人の後ろに 薄い靄のようにかかったものだ

人によって色々な色があってその向こうに

透けているような人が並んでいたり、1人だったりいるのが見えた

しかし、それを母に言ってもそんなモノは見えない

おかしなことを言うのはやめなさいと言われた

 

とにかく

父親も母親も共働きで生活するのがやっとという状態

鍵っ子だった私は大変な両親を心配させてはいけないと

ほんとうに世話が掛からない子供だったので

あまり そんな事を言っても気にしても貰えなかったのだろう

私もそれが見える事が特殊な事だとも思っておらず、さほど気にもしていなかった

 

保育園のころから

ちょっと変わった子だったからなのか

保育園の中や、終った後も

私はよく友達から虐められた

砂場で友達に立つように命令されて

そのまま、放置されることがよくあった

また、雨の日に長靴を履いていくと

その中に水や砂を入れられたりもした。

 

一人っ子だったこともあって

藁をつんだ小屋の中で絵を描いたり

田んぼで白つめ草を編んだり

独りで遊ぶことが多かった。

 

田んぼから見る

真っ赤な夕焼けの風景は

今も鮮明に覚えていて

私の心の現風景のようなものになっている。

 

 

 

引越し・・・

4歳になる頃

家を引越した。その時代に大変流行った団地である。

6畳・4畳半・3畳にキッチン なんと!お風呂なし

引越した当初は、歩いて10分ほどかかるお風呂屋さんに通っていたが

ベランダを改装工事してお風呂を造った。

5階建てで12棟もある団地、ほとんどの家庭は

ベランダをお風呂に改装していた。

今でもその団地は存在しており、Googleストリートビューで見ると

あの頃とほとんど変わっていない。

 

家賃が激安の団地に引っ越したが

やはり父親は絵描きという名のヒモ状態

生活は安定しない

母が頼みこんで、以前の家主さんの紹介で

父は歯科技工士の助士のような仕事を得た。

 

私はすぐ近くの保育園に通うことになった。

 

私はちょっと変な子供だったようだ

保育園には子供の足でも分もあれば余裕で着くような場所である。

母親は仕事があり毎日ひとりで通っていたが

ほぼ毎日大幅に遅刻だったらしい

この分ほどの道のりを1時間以上かかるのだ。

 

保育園に通う道端の蟻をみるのが大好きだった。

蟻が列をつくって食べ物を運んだり

よく働く蟻もいれば、ただウロウロしている蟻もいて

その頃の私にとって、なんだか不思議な生き物であると同時に

じっと見ているうちに、蟻の世界に、入り込んでしまうのだ。

 

また、私は

お昼寝の時間にも

周りから見るとおかしな行動をよくとっていた

私はまったくお昼寝をしない子で

お昼寝の時間は私にとって観察の時間だった

隣で寝ている友達のまぶたの裏側で目玉が動いているようなのが

不思議で、どうして寝ているのに目玉が動くのか

つい触ってしまうのだ。

 

せっかく寝ている友達は起きてしまうので

よく先生に怒られて

お布団を持って立たされていた。